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どうして人は性への憧れを持つのか?いや、人だけではなくて、この世に生きる生物全てが、性というものへの何らかの憧れを抱いているに違いない。 人間も、アダムとイヴの時代から性への憧れ−就中性行為に対する憧れ−を抱いている。アダムとイヴについては別のところで触れることになるだろうが、少なくとも私たち人類は、性に対していわば普遍的な形の憧れを抱いている。 子どもは性について何も知らない。しかし物心つき、肉体的に成長するにつれ、性についてどうしても考えるようになる(一部、障害者問題などでは、そうでない場合があり得るとの指摘があり、今後議論を深めてゆきたいところであるが)。自分の隣人であった異性を、それが異性であるというが故に、恋愛対象と考え、そしてその人に対して性欲が向けられる場合もあれば、ただ異性であるというだけで、恋愛感情などを抜きに、単に性欲の対象としてのみ異性を見てしまう場合がある(これは女よりも男に多く見られる現象である)。これはそもそもの悲劇の誕生である。 人には、愛しているわけでもない相手と関係を持つことを抑止する力(理性)がはたらく。男について言うならば、目前のおなごを襲いたいと思っても、容易に襲えないのは、この理性がはたらくからである。また、愛してもいない女に対して、性欲がわかないというケースもある。これは実に平和的な解決である。だが、この逆に、愛していない女に対してであっても、性欲がわき、そしてさらに理性がはたらかなくなってしまうという、もはや最悪の事態もあるのだ。これが世にいう、レイプである。 レイプするものは、弱い者である。自分で自分の性欲を押さえつけられないばかりでなく、そしてその性欲を、自分自身で処理することすらできないのである。 人間に性的欲求があるのは仕方ないことである。種族保存のため、絶対必要な欲求であって、セックスという行為自体、種族保存に欠かせない行為なのだから。それがもし、人々の嫌がるようなものであればどうだろう?誰も性的欲求を持たず、誰もセックスをしない。そうすれば、人間という種族は、時間とともに減り続け、いずれは誰もいなくなったということも起こりうるであろう。 こうしてみてみると、人間に性への憧れが存在していることは重要なことであり、そのような憧れを抱くように、我々は(神から)性欲というものを与えられたのではないだろうか。 |